先日、実家に帰省して久々に父に会いました。
父は地域でも3本の指には入るであろう歴史好きで、私が歴史学科に入ったキッカケをくれた人でもあります。
その父曰く、
「『大物崩れ』を知らずして、尼崎の歴史は語れず。」
ダイモツクズレ。JR尼崎駅から少し東の地で起きた、血みどろの争いのフィナーレ。
しかも、亡くなったのは当時の天下人だったのです。
昼ドラもビックリのドロドロした展開がドラマチックですが、尼崎でも知っておられる方は少ないのではないでしょうか・・・?
時は戦国。
と言いたいところですが、お話を始める時代が戦国時代かどうかは、歴史学者の間でも見解が分かれます。
「応仁の乱」という名前は聞いたことがあると思いますが、戦いの結末を知っていますか?
室町幕府8代将軍・足利義政の跡継ぎをめぐって弟の義視(よしみ)と息子の義尚(よしひさ)が担ぎ出され、他の有力大名の跡目争いも巻き込んで一大戦争に発展したのが応仁の乱です。
東軍の総大将・細川勝元。西軍の総大将・山名宗全。11年間続いた長き戦いの決着を二人の総大将は見ることが出来ませんでした。この戦いが終わる前に病死(暗殺・自殺説有)してしまったのです。
戦いは勝元の息子、政元・宗全の孫ともいわれる政豊に代替わりするまで続きました。しかも、形式上は東軍の勝利となりましたが、政豊や西軍主力の大内政弘が一切お咎めなしという事実上の引き分けに終わります。
そもそも、この戦いは「幕府の権力」を握るための戦いでした。しかし、戦いの結末は「幕府の権力」の弱体化を招いただけだったのです。しかも、多くの大名が京都に集結したため、空っぽになった地方では「守護代」を始めとする地方の有力者が着実に力をつけていました。下剋上の下地が出来上がっていたのです。
応仁の乱の間、細川氏は敵対する山名宗全のさらに敵である赤松氏と手を組み、山名領に侵攻させました。その結果、乱が終結した時点で赤松氏は山名氏の守護国であった播磨国(兵庫県)・備前国(岡山県)・美作国(岡山県)を手に入れていました。山名政豊は応仁の乱以前の山名領を取り戻すため、中央政界どころではなくなり、領国但馬国(兵庫県)に戻って領土奪還戦争に打ち込んでいくことになります。
では、細川氏はその後一体どうなったのでしょうか。今回の夜話は、細川政元にスポットを当てます。
応仁の乱が終結した1477(文明9)年、細川政元はまだ12歳でした。山名氏などが中央政界からいなくなり、京都で随一の力を持つ大名になった細川氏でしたが、乱後しばらくは一族や家臣たちによって方針が決められました。政元が表舞台に登場するのは1480年代に入ってからになります。
足利義政の一人息子で、応仁の乱後将軍となっていた9代将軍・足利義尚が1489(延徳元)年に死去すると、将軍家では再び跡継ぎ問題が浮上します。応仁の乱で担ぎ出された義政の弟・義視の子・義材(よしき)と義政のもう一人の弟・政知の子・義澄(よしずみ)が候補でした。義視と細川家は応仁の乱以降あまり関係が良くなかったようで、細川政元は義澄を支持します。しかし、義材の母・日野良子(よしこ)は足利義政の妻であり、幕府内部で絶大な権力を持っていた日野富子(とみこ)の妹でした。富子は義材を支持、紀伊国(和歌山県)の大名畠山政長がこれに加担したことで、10代将軍は義材に決まりました。この決定の後、細川政元は幕府と距離を置くようになります。
義材が将軍になった後、力を伸ばしたのが畠山政長でした。政長は管領となると一気に力を伸ばし、幕府の主導権を握ります。これを面白く思っていなかったのが日野富子です。莫大な財力と隠然たる影響力を有していた富子は、密かに細川政元と手を結びます。
管領・畠山政長が応仁の乱以来、目の敵にしていたのが従兄弟の畠山義就(よしなり)でした。応仁の乱の後も両者は畠山氏の当主の座を巡って争い続け、義就の死後は義就の息子・基家(もといえ)と戦っていました。幕府の主導権を掌握し、勢いに乗っている政長は義材に基家追討を号令させ、呼応した大名達と共に基家のいる河内国(大阪府)に侵攻します。義材としても、この戦いで武威を示し幕府の威光を回復したいという思惑がありました。戦いは義材・政長方が有利で、基家は次第に追い詰められていきます。
基家討伐のために義材・政長が河内国に攻め込み、京都に残ったのは日野富子・細川政元という状況になりました。二人はこの好機を見逃しませんでした。即座に朝廷と義澄を取り込み、京都でクーデターを起こします。義澄を11代将軍とすると、新将軍の名の下で大名たちに「河内から撤退せよ」との号令を下します。驚いた大名達は慌てて自らの領国に帰国していきました。政長と基家の立場は完全に逆転し、政長は細川軍と基家軍に包囲され自殺、義材は捕縛、幽閉され小豆島に流されそうになりますが脱走し、越中国(富山県)まで逃げていくことになります。
細川政元が起こしたクーデターは後世「明応の政変」と呼ばれるようになりました。明応の政変の3年後に日野富子は病没し、31歳の政元は「半将軍」と呼ばれる幕府の最高実力者になったのです。めでたしめでたし・・・
とはならないのがこの時代なんですよね。政元にはこの時代において致命的な欠点がありました。それは細川家だけでなく、室町幕府の運命をも揺るがしていき、冒頭の「ダイモツクズレ」に繋がっていきます。その話はまた次回にしましょう。今回のお話の舞台は京都・大阪でしたが、次回はいよいよ真打・尼崎の登場です!
尼崎夜話①年表
1467(応仁元)年 応仁の乱 勃発
1477(文明9)年 応仁の乱 終結
1489(延徳元)年 足利義尚 死去
1490(延徳2)年 足利義材 将軍就任
1493(明応2)年 明応の政変