ダイモツクズレ編はいよいよ最終回。
実は今日が「大物崩れ」が起きた日なんです。
492年前の今日起きた大物崩れ。「その時」に至るまでを見ていきましょう!
足利義稙を京都から追放し、かつての仇敵足利義澄の子・足利義晴を将軍に戴いた高国。その後の義稙・澄元(晴元の父)が相次いで死去したこともあり、つかの間の安定を得ます。しかし、高国は猜疑心が強く、この時期に重臣・瓦林正頼を粛正したりと高国陣営内部の緊張感は高まりつつありました。
大永6(1526)年、高国は同じく重臣の香西元盛を謀殺します。これが政権崩壊の始まりでした。香西元盛の親族で丹波国(兵庫県)の実力者・波多野氏が反乱を起こします。丹波国は京都に近く、高国の支持基盤の一つでもありました。高国としては足元に火がついた格好になったのです。これを待っていたのが細川晴元でした。重臣の三好元長(三好長慶の父)と共に京都に進撃を開始し、翌大永7(1527)年、ついに桂川浜の戦いで高国を破り、高国は近江国(滋賀県)へと逃れていきました。
一度は越前国(福井県)の朝倉氏と共に京都を奪回した高国。しかし、朝倉氏は雪で領国が閉ざされる前に帰らねばならず、朝倉氏が帰ってしまうと再び京都を失陥します。高国は今度は備前国(岡山県)守護代浦上村宗と手を結び、京都へと進軍します。
村宗と京都を目指す高国。しかし、晴元もそう簡単に京都への進撃は許しません。両者は摂津国(大阪府)で膠着状態となりました。鍵を握ったのは播磨国(兵庫県)守護の赤松政祐(まさすけ)でした。この政祐、村宗とは備前の権益をめぐって激しく対立していました。しかし、京都帰還に焦る高国はなりふり構わず政祐と手を結びます。これで戦局は高国方が有利となったかに思われました。
ここでこの戦いを赤松政祐側の視点で見てみましょう。政祐の前方には味方ではありますが、仇敵の村宗がいます。その向こうには敵方の晴元が陣をしいていました。今、晴元と手を握れば、村宗を滅ぼすことができる。それは、備前国の権益を手中にすることを意味していました。そして、実際に政祐は裏切りを実行するのです。
高国・村宗方は挟み撃ちされる格好となり、大混乱に陥ります。
「川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはあらじと人々申す」
と書かれるほどの大敗北となりました。
勝敗は一気に決し、村宗は戦死、高国は尼崎へと逃げ込みます。高国は紺屋(染物屋)の甕の中に隠れていた、といわれています。しかし、晴元方の兵に発見され、最終的に広徳寺(尼崎市寺町)で自害に追い込まれました。
これが大物崩れ(ダイモツクズレ)の顛末です。澄元を裏切り、天下を握った高国。しかし、彼もまた、裏切りによって最期を迎えたのです。
前回から2話にわたってお送りしたこの戦い、今日では「永正の錯乱」と呼びます。この一連の戦いで細川家を支えてきた有力な武将達も殆どいなくなってしまいました。細川家の嫡流は勝者の晴元となりますが、彼もまた三好氏と対立して、没落してゆくのです。足利尊氏以来、京都で大きな力を持ち続けた細川氏の衰退は、まさに時代の移り変わりを示していたのです。
年表
大永6(1526)年 高国、香西元盛を謀殺
大永7(1527)年 桂川浜の戦い
享禄4(1531)年 大物崩れ