さて、前回(6/28投稿)は細川政元が「明応の政変」で権力を握った、しかし政元には「致命的な弱点がある」というところまでお話しました。政元の致命的な弱点とは何だったのでしょう?
それは「極度の女嫌い」だったことでした。この時代、「家」の存在は今とは比較にならないくらい重要でした。大名家の跡取りがいない、すなわち「お家断絶」となるのは今でいうと大会社が倒産するくらいのインパクトがありました。大名家が潰れるというのは、一族の滅亡にとどまらず、領地の治安が悪くなる場合も往々にしてあったのです。大名達が当たり前のように多くの側室を持っているのは「お家断絶を防ぐ」という意味合いも大きかったと思われます。例えば、15代続いた江戸幕府において、正室との間の子が将軍職を継承したのは2代秀忠→3代家光だけです。武家政権は、側室の存在なくして成り立たなかったと言っても過言ではないと思います。
しかし、政元が「極度の女嫌い」である以上、正室どころか側室との間にも子供は望めません。しかも、政元には兄弟がおらず、甥もいないという深刻な後継者不足の状態でした。そこで、政元は五摂家(藤原道長の子孫で代々摂政・関白を継承している5つの家)の九条家から養子を貰います。これが問題の始まりでした。この九条家から養子に来た人物、名を細川澄之といいます。当初、政元は澄之を後継者として扱っていました。しかし、家臣の中から「細川の血縁者でもないのに、なぜ後継者なのか」という声が挙がります。動揺した政元は一族内からも養子を2人貰いました。名を細川澄元、細川高国といいます。しかも、政元は家臣団の声に押され、澄元に後継者を変えてしまいました。澄之からすれば、自分は何の落ち度もないのに突然後継者から外されてしまった、到底納得がいかないわけです。怒った澄之は、あろうことか政元を暗殺してしまいます。
幕府の最高権力者が突然消えるという大問題に幕府は大きく動揺しました。政元を暗殺した澄之は直ちに殺され、政元に後継者として指名されていた澄元が家督を継ぎます。しかし、細川家の混乱はすぐには収まりませんでした。澄元は後継者にこそ指名されていましたが、もう一人の養子である高国に比べて器量が良くありませんでした。細川家臣団は後継者のお墨付きを得ている澄元と器量に勝る高国の二派に分裂し、抗争が始まります。
この状況を西から虎視眈々と見つめている人物がいました。前回紹介した西軍きっての実力者・大内政弘の子、義興です。大内氏は長門国(山口県)、周防国(山口県)を領有する西国の実力者で本拠地・山口は「小京都」と呼ばれるほどの繁栄を見せていました。そして、その山口に身を寄せていたのが足利義材です。越中国(富山県)に逃げていた義材は大内氏を頼って山口に来ていたのでした。内部分裂による細川氏の弱体化は、義興にとって父・政弘が夢見た幕府の権力を握るまたとない機会だったのです。
永正5(1508)年4月、ついに義興は義材を奉じて上洛を開始します。この状況で義興に呼応したのが高国でした。義材・高国・義興は共闘し、澄元と将軍義澄を京都から追い出しました。義材は足利義稙(よしたね)と改名し、再び将軍に復帰します。義興は念願だった幕府の権力を手中にし、高国もまた事実上の細川家の当主となるのです。
しかし、澄元もこのまま黙っていたわけではありません。澄元は分家の阿波細川氏の出身だったので阿波国(徳島県)では澄元を支持する勢力が圧倒していました。彼らは京都を奪い返すため、瀬戸内海を渡ってきます。その上陸地の1つが尼崎だったのです。
尼崎が戦略的に重要な地となった理由は、地理的要因が大きく影響していました。尼崎を奪うと、軍勢は西国街道を通って一両日中に京都へなだれ込むことが出来ます。阿波国→尼崎→京都という最短ルートで兵を送ることが出来れば、澄元にとっては京都及び政権奪還への大きな足掛かりとなる訳です。高国もそれは理解しており、自らの重臣である瓦林正頼を越水城に送り込み、西宮・尼崎の防衛に努めました。高国自身は昆陽・富松・武庫などに陣を張り、越水城を救援しています。
将軍家・細川家の泥沼の争いは20年以上にわたって続きます。永正15(1518)年には大内氏の領国に出雲国(島根県)の大名である尼子氏が攻め入ってきたため、義興は山口に帰ってしまいました。勢いづいた澄元は一度尼崎を抑え、京都の奪還にも成功します。すると、あろうことか義稙は高国を裏切って澄元と手を組みます。怒った高国は京都を奪還すると今度は義澄の子である義晴を将軍にします。京都を追われた義稙は淡路で波乱万丈の生涯を閉じます。同じく京都を追われた澄元は永正17(1520)年に病死します。しかし、今度は澄元の子晴元が基盤を引継ぎ、父の宿願である高国打倒を目掲げて京都を目指していくことになります。
今日はここまで、いよいよ次回は「ダイモツクズレ編」です。尼崎で泥沼の戦いがフィナーレを迎えます!
年表
永正4(1507)年 細川政元暗殺、澄之討たれる
永正5(1508)年 足利義稙・大内義興と共に上洛
高国が細川氏の事実上の当主になる
永正15(1518)年 大内義興帰国
永正17(1519)年 澄元が京都を奪還
永正18(1520)年 高国、再び京都を奪還
足利義晴が将軍となる